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【センター長コラム No.70】日本国憲法第24条を書いた女性④ 彼女の名前を冠した建物が誕生

こんにちは。お変わりありませんか。

ロウバイが咲いて、よい香りを漂わせています。ピンクの花は、茶花としても有名な太郎冠者。花姿の美しい凛とした花です。

 

もうすぐ2月ですね。毎年2月が近くなると、我が国の憲法制定の歯車が大きく動き出した1946年(昭和21年)2月の出来事と、憲法に婚姻における男女平等を書いた女性のことを思います。

 

その女性はベアテ・シロタ、終戦後の日本で占領政策を行ったGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の職員で、当時22歳でした。

 

ベアテ・シロタさんのことに関しては、以前、このコラムにシリーズで掲載した「日本国憲法第24条を書いた女性」①~③の中に書いていますが、経緯を簡単にまとめると次の通りです。

 

日本は、ポツダム宣言を受諾した後、民主主義国家としての新しい憲法を作成中でしたが、2月1日の毎日新聞に、作成途中の草案がスクープされました。

 

GHQは、草案が明治憲法とほとんど変わっていないことを知って驚き、自ら草案を作成して日本政府に受け入れさせるほうが早道だと判断したのでした。

 

2月4日に、ベアテ・シロタを含むGHQ民政局のメンバーが一室に集められ、草案を作成することが命じられました。作成期限は、2月12日。日本との協議が2月13日に予定されていたためです。すべて秘密裏に行うことが厳命され、密室となった民政局で、9日間の作業が行われました。

ベアテ・シロタは、人権条項を担当する委員会のメンバーに割り当てられました。

 

ベアテ・シロタが、少女時代に暮らした日本で見聞きした日本人女性の境遇を思いながら書いたのが第24条の草案です。

 

第24条は、婚姻は結婚する当事者の合意のみで成立し、夫婦は同等の権利を有することや、結婚や離婚、家族や相続に関する法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して制定されなければならないということが定められています。

 

彼女は、戦前、音楽家だった父親が東京音楽大学で教鞭をとったことから家族で来日し、5歳から15歳までを東京で暮らしました。そのときに、家制度の下で不幸な結婚生活を強いられていた日本の女性の状況を見聞きしていたので、日本の女性が幸せな結婚生活を送るためにはどのような憲法があればよいかを考えながら書いたのが、第24条のもとになった草案です。

 

詳細は、「日本国憲法第24条を書いた女性」をご覧ください。

 

今日は、ベアテ・シロタのその後と、福岡県とも関係するこぼれ話をご紹介したいと思います。

 

ベアテ・シロタは日本での任務を終えて、1947年5月にアメリカに帰国し、1948年1月に、民政局で一緒に働いていたジョセフ・ゴードンと結婚し、ベアテ・シロタ・ゴードンとなりました。

 

ベアテは、1952年、渡米して2か月間アメリカを視察した市川房枝の通訳として全米を回ったほか、1954年からは、日米の文化交流を行う「ジャパンソサエティ」に勤務し、棟方志功、勅使河原蒼風、千宗室、北大路魯山人などを招聘、日本とアメリカの文化交流に力を尽くしました。

 

ベアテ・シロタ・ゴードンは、2012年12月に89歳の生涯を閉じましたが、このほど、シロタ・ゴードンの名前が日本に残されることになりました。

 

東京六本木にあるアメリカ大使館の職員宿舎ビルの1つが、「シロタ・ゴードン・タワー」と命名されたのです。

 

宿舎は、在日本大使の名前が付けられていましたが、宿舎の名称を変更することになり、検討会で名前の案を持ち寄って一番多くの支持が集まったのが「シロタ・ゴードン・タワー」でした。

 

昨年7月20日、来日中だったシャーマン国務副長官の臨席のもとに命名の式典が開かれました。

シャーマン国務副長官は「日米友好を深め、女性の権利を守ったベアテ・シロタ・ゴードン氏の数多くの貢献をたたえます。米国大使館の敷地内に彼女の名前が刻まれることで、将来世代が彼女の功績を思い出し、たたえることになるでしょう」と述べました。

©Department of State

 

©Department of State

 

ベアテさんの名前は、記憶と共に、アメリカ大使館の敷地の中にも残ることになりました。

 

さて、ベアテさんに関するこぼれ話は、ベアテさんが15歳でアメリカに留学する際の話です。

アメリカ留学にあたって、アメリカの入国ビザをとる際に、10年間犯罪とは無関係であるという証明書が必要でした。ベアテさんはユダヤ系のオーストリア人だったので、そのとき、すでにウィーンはナチに占領されており証明書がとれなかったのです。

 

窮地を救ったのが、元総理大臣で外務大臣も務めた広田弘毅です。ヒロタとシロタは似ているので、外国からくるシロタ家あての郵便物が広田家に間違えて配達されることも多かったそうです。

 

広田弘毅とベアテの父親は、「シロタ家に届くプレゼントは中身がいいから、あなたのところにお返しするのは残念だな」と冗談を言い合う間柄だったようです。

広田弘毅がアメリカ大使館に電話をしてくれて、ビザが下りたということです。

 

広田弘毅は福岡県出身、現在の福岡市天神で石材店を営む広田徳平の子として生まれました。

福岡市東公園に亀山上皇の銅像がたっています。上皇像の銘板に、銅像の設置に功績があった石工の名前が刻まれていますが、その中に、広田徳平の名前もあります。

 

また、広田弘毅は大変字が上手でした。福岡市天神にある「アクロス福岡」のちょうど正面にある水鏡天満宮の南側鳥居の扁額の「天満宮」の字は、広田弘毅が小学生の時に揮ごうしたものだといわれています。

 

人と人との縁はときに歴史を動かすともいわれます。私たちを取り巻く法の歴史にも、いろいろな縁にまつわるエピソードがあります。そんなことを改めて思った次第です。

 

最後は、マイ農園だよりです。

先日、デコポンとスイートスプリングを試し収穫してみました。酸味が抜けるまで少しおいてから食べます。ゆずも収穫して、こちらは佃煮にしました。

 

コロナの感染が拡大する一方です。

くれぐれも感染予防にご留意ください。

ではまた。                                                                     (2022.01.30)

 

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