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【センター長コラム】憲法第24条を書いた女性  (2019年6月25日配信)

ノウゼンカズラの花が咲きました。この花が咲くと夏になったなと思います。

鉢植えの山椒に、ほんの少しですが、実がなりました。ぬか床に入れようと思っています。

   

 

先日、築上町にある旧蔵内邸で開催された音楽サロン「佐藤しのぶ 日本を歌う」に行きました。旧蔵内邸は、明治期から昭和初期にかけて炭鉱経営で財をなした蔵内家の住居で、敷地面積7,200平米、延床面積1,250平米の大邸宅です。国指定名勝である見事な庭園をのぞむ大広間にステージと120の客席がつくられ、私たちは、数メートルの近さから、ソプラノ歌手・佐藤しのぶさんの歌をきくという夢のようなひとときを過ごしました。

 

 

佐藤さんは、「合唱組曲筑後川」や「合唱組曲北九州」の作曲などで福岡県とも縁のある團伊玖磨の曲や、北原白秋作詞・山田耕筰作曲の童謡など十数曲を歌い、歌の合間には、山田耕筰の名前につけられた竹かんむりのお茶目な由来など、楽しいおしゃべりもありました。

 

山田耕筰は、童謡「赤とんぼ」や「待ちぼうけ」などの作曲者として、子どもの頃から名前はよく知っていましたが、最近では、私は、山田耕筰というと必ず、日本国憲法に、結婚に関する男女平等を書いた女性ベアテ・シロタを思い出します。

日本国憲法は、GHQが草案を書き、それを日本が受け入れたものですが、草案作成メンバーの一人に、当時22歳だったベアテが選ばれ、彼女が書いたのが、第24条「家族関係における個人の尊厳と両性の平等」の草案だったのです。

 

ベアテは、5歳から15歳までを戦前の日本で暮らし、戸主制度の下で不幸な結婚生活を強いられていた女性の状況を見聞きしていたので、女性が幸せな結婚生活を送るためにはどのような憲法があればよいかを考えながら書いた条文が第24条です。

 

このベアテ・シロタが5歳のとき、両親に連れられて日本に来ることになったきっかけを作ったのが、山田耕筰だったのです。

ベアテの父は、「リストの再来」と言われた著名なピアニストのレオ・シロタで、山田耕筰が、レオ・シロタを東京音楽学校の教授として日本に招いたのでした。

 

少女時代を日本で過ごしたベアテは15歳でアメリカに留学しますが、1941年に日米が開戦し、ベアテと両親はアメリカと日本に離れ離れになります。終戦後、ベアテは日本に残った両親に会うためにGHQの要員募集に応募し、19451224日に再来日したのです。

19462月、GHQが憲法草案を作成することになり、ベアテが少女時代に見聞きした日本の女性の境遇を思いながら書いたのが第24条の条文です。

 

ベアテ・シロタの生い立ちや草案作成の経緯など興味深い詳細が、ベアテさん著の『1945年のクリスマス―日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝』(柏書房、1995年)にえがかれています。山田耕筰、梅原龍三郎、広田弘毅、白洲次郎など、著名人がたくさん出てきて、ドラマを見ているような気がします。

 

また、現在、埼玉県嵐山町にある国立女性教育会館NWECで、「ベアテ・シロタ・ゴードン展」が開催されていますので、NWECに行かれるときは是非ご覧ください(会期は今年930日まで)。

 

私は、何年か前に、インターネットの古書店で『1945年のクリスマス』を購入したのですが、到着した本には、なんとベアテのサインが入っていました。この本は今、私の宝物の1つになっています。我が家に咲いたホタルブクロの花とともに掲載します。

ではまた。

   

                                                                                                (2019.06.25)

 

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