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【センター長コラム】 枠組みの転換点 「女子差別撤廃条約」  (2020年4月28日配信)

こんにちは。

お変わりありませんか。

モッコウバラが咲きました。白とピンクのハナミズキの写真も一緒にお届けします。ハナミズキの花は、真ん中の黄緑の部分だけで、白やピンクの花弁に見えるのは、花を包むように葉が変形したものだそうです。

  

前回のコラムでは、国連が女性の地位向上の大キャンペーンをスタートした1975年の「国際婦人年」のお話をしました。

 

1975年、国連は、メキシコで国際婦人年世界会議を開催し、世界中が女性の地位向上に向けての行動をするための指針となる「世界行動計画」を採択しました。

 

また、国際婦人年で高まった女性の地位向上の取り組みが、国際的・国内的に継続して行われるように、国際婦人年に続く1976年~1985年を「国連婦人の十年」と定めました。

 

今日は、国連婦人の十年期間中の1979年に採択された「世界女性の憲法」と言われる「女子差別撤廃条約」についてお話ししたいと思います。

 

女子差別撤廃条約の準備と採択を早急に行うようにということは、「世界行動計画」にも書かれています。

 

下の図は、国連とわが国の女性の地位向上の歴史を表したもので、前回のコラムに掲載した図に、1967年の女子差別撤廃宣言を加えました。

 

 

国連は、創設以来、人権尊重、男女平等を推進しており、その一環として、1967年11月の国連総会で、「女子差別撤廃宣言」を採択しました。宣言は、女性に対する差別は不正であり人間の尊厳に対する侵犯であるとして、結婚や教育などさまざまな分野における女性差別の撤廃を求めています。

 

しかし、「宣言」は拘束力がないため、法的拘束力のある「条約」が必要であるという認識が高まり、条約採択へと進んだのです。

 

国際婦人年以前から、国連婦人の地位委員会がその準備作業を始めており、世界行動計画は、国連に、その作業を早く行うようにと求めたのです。

 

そして、1979年12月、国連総会で、日本を含む130か国の賛成により、女子差別撤廃条約が採択されました。

 

条約締結の手続きを順に追っていくと、「採択」というのは、このような内容のこのような条約をつくりますと合意することです。「署名」は、この条約の締約国になって、条約に拘束されてよいですということを意思表示するもので、国の代表が署名します。「批准」は、署名をした条約について、締約OKを国として正式に表明することで、国会で承認し、批准書を国連に提出(批准書寄託)します。

 

女子差別撤廃条約の採択⇒署名⇒批准にはそれぞれエピソードがありますのでご紹介したいと思います。

 

まず、採択ですが、採択の場には、男女雇用機会均等法の母と言われる赤松良子さんもいました。当時、国連日本政府代表部特命全権公使として、国連に勤務しておられたのです。

赤松さんは、「賛成投票をした政府代表や随員の女性たちは抱き合って喜んだが、私は、日本はこの条約を批准できるのか心配だった」と回想しています。

 

赤松さんは、国連の任期を終えた後、労働省婦人局長として、条約批准の条件である男女雇用機会均等法の制定に携わることになり、心配したとおりの苦労をすることになったのです。

 

翌1980年に、デンマークで開催された第2回世界女性会議(国連婦人の十年中間年世界会議)で条約の署名式が行われました。署名をしたのは、当時、デンマーク大使をつとめていた高橋展子さんです。(余談ですが、高橋展子さんは、私が男女共同参画の道に進むきっかけとなった勤務先、「アジア女性交流・研究フォーラム」の名づけの親です。)

 

女子差別撤廃条約は、母性保護(妊娠・出産)のための特別措置と、事実上の不平等を解消するための暫定的な特別措置(「アファーマティブ・アクション」や「ポジティブ・アクション」と言います)以外は、すべて女性差別として禁止し、締約国に対して、女性に対する差別となる既存の法律や規則、慣行などを修正・廃止することや新たに立法することを求めています。

 

したがって、この条約に署名するということは、この条約に違反している法律などを修正しなければなりません。

 

わが国では、①国籍法の改正、②高校の学習指導要領で家庭科は女子のみ必修としているのを男子も履修すると改定すること、③男女雇用機会均等法の制定、が必要であったため、それはとても無理だということで、日本政府は署名に消極的でした。

 

しかし、女性たちの思いは強く、いろいろな人の働きかけや尽力で、署名式のわずか2日前にやっと署名することが決まりました。このときのいきさつは、昨年7月に書いたコラム「歴史が動いた夏」を参照ください。

 

「歴史が動いた夏 (2019.07.23)」

 

そして、批准ですが、1985年5月の男女雇用機会均等法の成立を待って、条約承認の国会審議が行われ、6月に承認されました。

 

批准書の提出(寄託)は、通常は国連で行われますが、1985年は、つくば万博の年で、ちょうど、国連のデクエヤル事務総長が万博の視察に来日していたため、日本で寄託式が行われました。6月25日、女性議員や関係者が見守る中、当時の安倍晋太郎外務大臣からデクエヤル事務総長に批准書が手渡されました。

 

そして、批准書寄託の30日後の7月25日に、日本に対する条約の効力が発生しました。ナイロビで行われた第3回世界女性会議の最終日の前日でした。

 

さて、女子差別撤廃宣言と女子差別撤廃条約の違いは、法的拘束力を持つかどうかということだけではありません。

宣言では、家庭責任、特に子育ての役割は女性が持つと考えられていたのに対し、条約は、家庭責任は女性のみが持つものではない、男女の定型化された役割分担を変える、としている点に大きな違いがあります。

 

したがって、条約ができる前に日本で制定された「勤労婦人福祉法」は、「宣言」と同様、「家庭責任をもつ女性」が働くための法律であったのですが、男女雇用機会均等法は、家庭責任も社会参加も男女が共に担うものとする「条約」に基づく法律となったのです。

 

「宣言」から「条約」へと世界の枠組みが転換する中で、日本の法律も大きな変化があったのです。

 

まだまだお話ししたいことはたくさんありますが、今日はこの辺で。

 

今、私が市町村に伺って、行政や県民の皆さんに直接お話しすることができないので、このような形で、ミニ講座を行っています。お知り合いの皆さんに情報を拡散いただければ幸いです。そして、感想やご要望などを是非お寄せください。お待ちしています。

 

 

終わりは、マイ農園だよりです。

マイ農園というより、裏庭のフキが大きくなり、フキ畑のようになりました。

フキの佃煮がたくさんできました。

 

ではまた。 

                                  (2020.04.28)

  

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