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【センター長コラム】 「女子差別撤廃条約」で変わった日本の法制度①  (2020年5月7日配信)

こんにちは。お変わりありませんか。

今日は、5月の日差しの中、鮮やかに咲いているピンクの花々の写真をお届けします。左から順に、タニウツギ、シンビジウム、エビネランです。

シンビジウムは、20年ぐらい前に買った1鉢からだんだん増えてきて、十数株になりました。

 

 
 

前回のコラムでは、「女子差別撤廃条約」は、世界の男女平等政策の枠組みの転換点となったというお話をしました。

 

女子差別撤廃条約は、母性保護(妊娠・出産)のための特別措置と、事実上の不平等を解消するための暫定的な特別措置以外は、すべて女性差別として禁止し、締約国に、女性に対する差別となっている既存の法律や規則、慣行などを修正・廃止する(立法を含む)ことを求めました。

 

そこで、今回と次回のコラムで、女子差別撤廃条約によってわが国の法律や制度がどのように変わったのかを、見ていくことにしたいと思います。

 

わが国では、①国籍法の改正、②高校の学習指導要領で女子のみ家庭科が必修としているのを男子も履修とすること、③雇用における平等の法制化、が必要でした。

 

まず今回は、③雇用における平等の法制化に関してお話ししたいと思います。

 

雇用における平等といえば、男女雇用機会均等法の制定です。私も、コラムの中で何度も均等法について紹介しましたが、わが国にはもう一つ、労働基準法の中に、女性労働者を保護する規定(女子保護規定)があり、これも見直さなければならないという問題があったのです。

 

どんな保護規定があったかというと、労働時間の制限、深夜業の禁止、坑内労働の禁止、危険有害業務の制限、生理休暇などです。解雇した女子労働者が帰郷する際の旅費を支給しなければならないという規定(帰郷旅費)もありました。

 

このように、雇用における平等の法制化は、男女雇用機会均等法をつくるというだけでなく、労働基準法を変更するという課題を抱えていたのです。

 

では、なぜ、労働基準法には女性労働者の保護をする規定があったのでしょうか。

それは、労働基準法が制定された1947年当時の労働環境のためです。

 

当時の労働環境は劣悪で、年端のいかない女性たちが、十分な休養も与えられずに長時間労働をさせられるという現実もあり、女性や年少者は、保護すべき弱者でした。

そのため、働く女性や年少者に対して、労働時間の制限をしたり、深夜業を禁止したりして健康上特別の保護をすることは、民主国家の当然の責務と考えられたのでした。

 

帰郷旅費は、家から離れた工場の寄宿舎にいる女性が解雇された場合、故郷に帰る旅費がなくて、売春をするようになる女性が多くいたために定められたといわれます。

 

実は、「労働基準法」の草案作成を始めた当初、法律の名称は「労働保護法」でした。法案を審議する審議会で、「保護」は労働者を弱者とみるようなので改めるべきとされ、「労働基準法」に変更されたのですが、女性を保護するという考えは変わりませんでした。それくらい労働環境が悪かったともいえます。

 

余談ですが、「女性=弱者」という考え方はともかく、私は、労働基準法をつくった人たちの、この法律に対する思いはすばらしいものがあると思っています。

 

明治以降わが国は、欧米に追いつくために、労働環境を犠牲にしても経済発展を優先してきましたが、法案作成者たちは、その考えを改め、戦後の経済復興の重要な役割を担う労働者が最低限度の文化的生活を営むために必要な条件を保証するのが労働基準法だと考え、第1条には「労働条件は、労働者が人たるに値する生活を営むための必要を満たすべきものでなければならない」と書かれています。

 

「人たるに値する生活」というフレーズ、いいですね。いま言われている「ワークライフバランス」という言葉を目にするたびに、私は、労働基準法のこのフレーズを思い出します。

 

話を元に戻しましょう。1980年代といえば、労働基準法制定から30年以上がたち、労働環境も変わっていました。帰郷旅費の規定はすでに存在意義を失っていましたし、深夜業(午後10時から午前5時までの仕事)の禁止も、タクシー運転手は収入が上がらない、卸売市場や弁当製造会社で働く女性も早朝勤務がしたいというなど、不都合になっていました。

 

そのため、雇用における平等の法制化は、時代の要請と、条約の要請の両方があり、労働基準法の女子保護規定をどこまでなくすか、均等法はどれくらい厳しい規定にするかに関して、使用者側と労働者側の意見が対立し、せめぎ合いが続けられたのです。

 

均等法の母といわれる元労働省婦人局長の赤松良子さんは、両者を調整し、どのあたりで合意するかにたくさんの時間を要したのでした。

そして、1985年に、男女雇用機会均等法の制定と労働基準法の改正が一緒に行われました。

 

男女雇用機会均等法の制定には、本当にいろいろなことがありましたので、いくら書いても書ききれません。詳しくは、赤松良子さん著『均等法をつくる』(2003年、勁草書房)をぜひお読みください。もっと詳しく知りたい方は、赤松良子『詳説 男女雇用機会均等法及び改正労働基準法』(1985年、日本労働協会)を参照ください。

私のコラムは、「男女雇用機会均等法制定35年」「均等法の父」をご覧ください。

 

終わりは、いつものように、マイ農園だよりです。

スイートスプリングというみかんの木に、おびただしい数のつぼみがつきました。去年は花が少なく、4~5個しか収穫できなかったのですが、今年はよい香りがして蜂が飛び回っています。

3月に漬込んだレモンの砂糖漬けに火を入れ、天日干しをしました。少しかたいですが、よいお茶うけができました。

健康管理、まだ、くれぐれもご留意ください。

ではまた。                                   (2020.05.07)
 
 

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