男女共同参画を学びたい方へ

 

あすばるゼミナール (男女共同参画に関して専門家の先生から分かりやすく解説していただきます。)

 

     講師 林 弘子さん

 

      (宮崎公立大学 学長)

 

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第12回  女性労働行政と男女共同参画

 

  

 2011年11月に開催された「あすばる男女共同参画フォーラム2011」で、戦後の1947年に旧労働省初代婦人少年局長に就任した山川菊栄(1890~1980)生誕120年を記念して、その足跡をたどるドキュメンタリー映画「姉妹よ、まずかく疑うことを習え」(山上恵子監督、2011年)が上映された。一風変わったこのタイトルは、1918年に山川菊栄が書いた「男が決める女の問題」の一節、「私たちはいつ私たち自身の魂を形成する権利を彼らの手に委ねたのか 私たちの若き姉妹よ、まずかく疑うことを習え」から取られている。

 

 社会学者の上野千鶴子さんは、「1918年、与謝野晶子と平塚らいてうの間の『母性保護論争』に、割ってはいった当時20代の山川菊栄は、彗星のように大正女性論壇に登場した才女である。その議論の運びの周到さと熱くならないクールな知性に、いたく感心したものだ。社会主義者でありながら、女性には階級のみならず女性固有の課題があると主張して、男権批判をおそれなかった。」と書いている。

 

 1947年に旧労働省が設置され、女性・年少者保護と福祉のための行政機関として設置された婦人少年局長に就任した山川菊栄は、日本の女性労働政策の礎を築いた女性である。婦人少年局の設置には、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)が大きな役割を果たしている。女性に参政権を認め、女性の解放を5大改革指令に掲げていたGHQは、日本政府の中に1920年にアメリカ労働省に置かれた婦人局(Women’s Bureau)のような局を作ることを強く望んでいたのである。1948年に46都道府県に出先機関として配置定員216名の婦人少年局職員室が置かれ、山川菊栄は抵抗を制して、室長を全員女性にした。全員が一堂に会した映画の中の写真は圧巻で、映像の持つインパクトを改めて実感した。山川菊栄は、女性の労働現場を調査し、「男女同一賃金」、「生理休暇」を訴えるポスター、パンフレットを数多く手がけたが、試験に合格しなかったという理由で、1951年6月に在職わずか3年半で退任に追い込まれた。

 

 1952年には、地方支分部局として都道府県婦人少年室が設置された。1954年に地方婦人少年室の仕事に協力することを目的として婦人少年室協助員880人が任命された。その後、婦人少年局は再編され、1984年に婦人局となり、1985年には均等法が制定された。婦人少年室の室長は、伝統的に女性であったが、均等法施行後、男性室長も任命されるようになった。1991年に育児休業法(95年に育児・介護休業法)、1993年にパート労働法が制定された。1997年の均等法改正とともに婦人局は、女性局に、婦人少年室は女性少年室に名称が変わった。

1999年の地方分権一括法により、都道府県労働局、都道府県女性少年室および都道府県職業安定課が統合され、都道府県労働局となった。雇用機会均等法、育児・介護休業法、パート労働法に基づいて都道府県女性少年室長に委任されてきた女性労働関係の業務は、都道府県労働局に設けられた内部組織としての雇用均等室で処理されるようになった。労働省女性局は、2001年に中央省庁再編で厚生省児童家庭局と統合され、厚生労働省雇用均等・児童家庭局となった。

 

 男女共同参画社会基本法の影響もあり、日本の労働行政から婦人・女性という名詞が消えてしまったのに対し、アメリカの女性(婦人)局は、設立92年後の現在も労働省の機関として健在である。女性の局長の下、優先政策として同一労働同一賃金、職場の柔軟性、女性により高い賃金の仕事を掲げている(http://www.dol.gov/wb/)。